意欲の源
共励保育園の4:4:2の法則の運動会が終わった。
どの子も、意欲満々。それぞれの競技に挑戦していた。子供たちの懸命に努力する健気な姿に涙する親は多いはずだ。子供たちは、かくも大人を幸せにしてくれる。
その子供たちの意欲はどこからくるのか?
私の運動会の保護者への挨拶に毎年欠かさない言葉がある。
「子供たちを精一杯応援してください!子供たちは皆さんの応援を食べておおきくなっていくのですから!」
光の子どもの家の菅原哲男さんの著書「誰がこの子を受けとめるのか」の165ページに「意欲」と題した一文がある。是非、ご紹介したい。
『意欲』
先日、学校の先生の家庭訪問があった。その中で、「どんなに手立てを尽くしてやっても、子どもに向上への意欲がないと教師はお手上げです」という話があった。
過日、光の子どもの家を会場にして、埼玉県児童福祉施設職員研究会が行われ、ここでも学習意欲のない子どもへの学習指導はお手上げであると言葉をきわめて語られていた。馬を川に連れていくことはできるが、水を飲むのは馬の意欲の有無による、と。
確かに意欲のない子どもへの教育は不能なのかも知れない。しかし、本来的に意欲を欠落させていた子どもなどいるのだろうか。
子どもは生まれる前から様々な意欲を表し続け、何も分からないと思われる新生児が最も活動意欲に溢れ、乳児の外界への知的あるいは身体的なそれは途絶えることがない。幼児から小学校入学前後までの、あらゆる事物への旺盛な意欲は誰にも止めることなど出来ないほどである。そんな意欲が、その後、消失するのは何故か。
自分の行動範囲や知的世界の拡大を望まなくなるのは、子どもの裡に原因があるとは考えられない。
(大人は)意欲を何らかの理由で失ってしまった子どもの状況を、表面的にとらえ、対症的に対応し、矯正しようなどと試みるようになっていく。子どもにその原因をどんなに熱心に尋ね、子どもをいじくりまわしても、その解決はできないのである。断じて。
教師にしても施設職員にしても、自分が意欲を削いではいないかと疑うべきである。技術や知識や姿勢や方法等に問題はないかと。子どもの問題の多くは関わる大人の問題なのだから。
とは言え、養護施設に学習意欲の欠乏した子どもは多い。どうしてそうなるのかを尋ね当てる職員は少ない。熱心な職員ほど子どもにその原因を追及するので、子どもはもちろん職員も疲れ苛立つ。力関係で子どもはもう一度、被害者になってしまう。体罰や暴力への目眩むような誘惑の発生源である。
這えば立て、立てば歩めの親心と言われ、愛に満ちた親や家族の期待が、胎児の時から、新生児、乳児、幼児、学童へと膨らんでいくのが通常である。
子どもはそのような親や家族の期待に応えることで受け入れられ、さらに深い愛情の中に入れられていく。だから、子どもは必死で努力するのである。このようにして意欲が生起し、人との関係の中で展開され、学習され、大きくなり、本能のように身についていくのである。愛情を基底にした期待と、それへの応答こそが、向上や発展の意欲を育む唯一の(意欲の)システムであると考える。
光の子どもの家の門を叩く子どもたちの多くは、決定的にこのプロセスの経験が無いか、少なかったのである。ここで出会った子どもたちのそれまでの環境は、劣悪さを極め、生まれることでさえ期待された子どもは稀なのである。
愛され期待され、努力してその期待に応え、舞い上がるような賞賛や、忍耐して対応し誇らしい評価をともにして感動した経験のない子どもに、どうして向上や発展への意欲などが生起するだろう。絶望的な状況で育ちながら、その優しさや明るさに感動させられ励まされさえするのである。
そんな子どもたちと身を寄せ合い、親たちに残された可能性を集め、共にそのプロセスを再生し経験し直していく。願ったように状況が推移するという何の保障のないまま、手探りの、気の遠くなるような関わりを展開していく。愛と期待の証としての関わりを。
愛は、条件や報酬を保障された労働行為などの中にはあり得ないことを銘記することも、教育や養育に関わる者には不可欠である。(1998年8月)
菅原哲男著「誰がこの子を受けとめるのか」より
(http://www.kyorei.ed.jpをご覧下さい!
運動会の子供たちの様子がビデオ映像で見られます。)
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